■「モカのリポート」増刊

    −円の変動相場制移行後に生まれて。いま、思うこと−

モカ



●「理由の不一致」

前々回の、「20代の失われた10年」は主婦の方への返答でしたが、じつは誰か に向かって発言するとか、他の媒体を意識して書くというようなことはありま せんでした。なるべくそういった“縛り”を意識しないように、との意向もあ りました。というわけで、訂正カ所がないわけではありませんが、ある40代の 男性から「仕事柄10代20代と接することが多いですが、20代に抱いていた不 審な点や心理が少し分かった」というような感想メールを結果的にいただけた ことはわたしにとってとても新鮮でした。

また、実社会ではまず接点がないと思われる、実際に不登校の中学生のお子さ んを持つ40代後半の主婦の方からもメールをいただきました。わたしはそれを 読み「引きこもり」というネガティブな言葉に違和感を感じました。イジメに あったわけでもなく学習能力がとくに低いわけでもない中学生が家でTVゲー ムばかりしている。そういった現実に対して「引きこもり」という言葉は不適 切ではないか、と疑いを抱いたのです。彼らにしてみれば、学校に行く「理由 がない」ということかもしれません。実際に話を聞いたわけではないですが、 学校に行く「理由がない」ということが不登校の理由だとすれば、その理由に は説得力とリアリティがあると思いました。

今、さまざまなフェーズで「理由がない」という現象が起きてるような気がす るからです。

「義務教育より先の受験勉強する理由がない」「現行のシステムの中で必要以 上に働く理由がない」「結婚する理由がない」「子供を生む理由がない」「豊 かなパラサイト・シングルを止めてまで家を出て自立する理由がない」「安定 的な老後を望む理由(貧困や戦争体験)がない」

わたしには、ある一つのフィールドだけに「理由がない」という現実があると は思えません。

もちろん社会的、あるいは世間的には、「学校に行かないと落後者の烙印を押 されるから」「大学に行かなければ大きな会社には入れないから」「家庭を 持って子供を生んだ方が幸せだから」「マイホームを手に入れたいから」

というような様々な動機づけはあると思います。そして、現実にある雛型とし て、それらの理由が機能していることは否定することでもないように思います。 しかし世間の理由が、個人の理由と一致して充足感をもたらしてくれるかどう か、については疑問を感じざるを得ません。

世間の理由と個人の理由の不一致は、コンフリクトしながらどこかでシグナル を発してるような気がします。

たとえば、なに一つ不自由のなさそうな、と言われる人達が、これまでに類の ない、社会から逸脱した行為に関わっているという現状があります。

キャリアのある超優秀な東京電力のOLが、渋谷の円山町で売春行為をはたらき 殺害され、裕福な家庭の頭のいいジャニーズばりのルックスを持つ中学生が 5000万円の恐喝事件の当事者となっているような現状です。

これですべてを語れるわけではないと思いますが、彼らに共通する点は、なに 一つ不自由がなさそうな、と世間が判断していることです。なに一つ不自由の なさそうな、という見方には、世間の理由という筋道から外れることなく理想 の状態にあるような人達がなぜ? というニュアンスが含まれていると思いま す。

わたしは、そのような問いの立て方自体に問題があるような気がしました。 世間の理由と個人の理由は一致するとは限らない、という前提がないものとし て度外視されているような気がしたからです。

個人の理由とは、通勤電車に乗りたくないから、というような個人の都合とは まったく分けて考えています。働きたくないから、疲れるから、ムカツクから、 というような利己的な都合も同様です。

個人の理由とは、充足感があるから、という理由に代表される何かだと思いま すが、個人の理由とは個人のものであるから、社会や第三者が規定した瞬間に 窮屈なものになってしまうものかもしれません。

世間の理由と個人の理由は、今後ますます離れていくのではないか、という予 測をもとに、一連の政治家の失言騒動をきっかけとして「世間とのズレ」を扱 うことを意図しました。

世間という曖昧なものについて直接考えることは不可能なので、「世間とのズ レ」が意図されたものになっているかどうか確信はありません。

しかし、わたしにとって、「神の国」失言後に報じられた「戦前回帰の空気を 感じとっても不思議はない」という論説より遥かに不思議なことを、今この日 本に生きる者の一人として感じています。

「世間」とは、「戦前回帰の空気を感じとる」ものなのだろうか、というよう なことです。

▼〜じつは「神の国」だから「三国人」には甘いのか?〜

●国際化とは

『「学ぶ」から「使う」外国語へ』 関口一郎著(集英社新書)−慶應義塾、 藤沢キャンパスの実践−では、次のように述べられている。

「“コミュニケーションのための外国語”とは、極言すれば“自分とその環境 について語る外国語能力”と言えるだろう。話し相手を除外して“自分と自分 の環境”としたのは、自分自身について語る能力のある人間は、当然相手が語 ることを十分に“理解”できるからである。ただしこの“逆”は必ずしも “真”ではない。受信はできるが発信はダメという一方通行型の人間は母国語 の世界でもたくさんいる。−略−“発信はするが受信はしない”という人間も いないわけではないが、これは本人の性格的な問題であり、普通は発信したの と同じ枠内での受信は誰でも容易にできる。野球や相撲の中継放送は誰でもで きるものではないが、その専門のアナウンサーが他局の中継を聞いて理解でき ないということはない。」

また、在独ジャーナリストである美濃口 担氏は、次のように述べている。                           (MSNジャーナル)

「外国人観は、それだけで存在しているのではなく、国民が国際社会のなかで 自分自身をどのように眺めているかという問題と連結している。私たちの「外 国人観」は「日本人とは外国旅行で出かけるかも知れないが、本当は日本で暮 らすべきだ」と考えていることを映した鏡でもある。」

生活全般にわたる消費活動が自給自足で、鎖国状態でやっていける国であるな ら、それはそれで一つの選択肢であるような気もする。だが、現実には原材料 のほとんどを輸入に頼り、加工製品の輸出によってGNPが世界第2位まで登り 詰めた先進国であることの延長に現在も在ることは否定できないだろう。

もちろんそれは過去の高度経済成長における顕著なな捉え方であり、今後は近 年に見られる携帯電話の高度な技術の輸出により国益が上がるかもしれない。 だが、それは日本の産業における一業種にすぎないという見方もできるだろう し、また戦略的な見通し、その技術が本当に海外で必要とされるか、という予 測を立てる上でも、世界に無関心でいることはビジネスにおいて致命傷となる 可能性は充分にある。かつて高鮮度、高画像、ワイドで躍動感あふれる、とい うハイビジョンが一般家庭に普及しなかったのは、当時は最高の技術であった にもかかわらず、人々に必要とされるかされないかという検討を怠ったからで はないか、という見解もあった。

ネット産業に詳しいライター I 氏は言う。 「渋谷のBit Valley(ビットバレー)と呼ばれるネット産業が集まる企業群の なかでも、技術の活かし方、ニーズへの対応が遅れてビジネスに発展しなかっ た例もある。検索エンジンの技術を知っている技術者はたくさんいたが、その 技術をビジネスとして、ホームページや知りたい情報の検索サイトとして人々 に利用してもらう、という発想に繋がらずに宝の持ち腐れとなってしまった従 来の考え方に縛られた技術者は数多くいた。」

高い技術はあっても、利用者のニーズを知らなかった、あるいは無関心であっ たためにビジネスとして発展させるチャンスを逃してしまったとも言えるだろ う。もちろん技術者としては、べつにビジネスにする必要なんかない、自分だ けが使うための技術だ、という技術者も多いだろうしそれはそれで正当ではあ るかもしれない。

だが、携帯電話の高い技術は明らかに、売るため、であることは間違いない。 売るため、には世界に無関心であっては国益を上げるまでのビジネスとして発 展させるのは難しい、ということは言えるだろう。世界の人々のことを知らな ければ、何が必要とされるかも分からない、ということは言うまでもないかも しれない。

燃費が良くて、性能がよく、長持する、というコミュニケーションにおける ニーズとはそれほど関係のない、分かりやすく主に高い技術によってのみ日本 製の車が世界で売れた時代と、人間や「他者」について考える、コミュニケー ションにおいて何が求められるか、ということがとりわけビジネスにおいて重 要になってきた現在とは、分けて考える必要があるのだろう。

ビジネスの世界が、とりわけ金融界においては、−都内の新橋と日比谷を分ける 外堀通り沿いに大きくそびえ立つメリルリンチの社屋などを眺めると−海外の 人達とのコミュニケーションの在り方が問われる時代であることをひしひしと 感じさせる。教育TVでも書籍売り場の学習コーナーでも、ビジネス英会話の類 が以前より格段に増えている。

このような世相に対して、我々の意識の有りようは、何か大きく変わっただろ うか。

オリンピックやサッカー選手のインタビューでは、「みなさんの期待に応えた い」「日本のためにがんばります」という返答が求められ、イジメが顕在化し て事件になれば、生徒の名前も知らないはずの校長が出てきて「まったくそん なことをする生徒には見えませんでした」とほとんどすべての学校の校長も運 が悪ければこなるというような見本を示し、芸能人がスキャンダルによって離 婚をすれば、今では特別に珍しいことでもなく当事者が法的に慰謝料などで個 人的に損を被るシステムがあるのになぜか誰かに向かって謝り、得体の知れな くなった我が子が犯罪を起こせばとりあえず親だからという理由以外に関係の なさそうな温厚なご両親が謝罪をする、

といったことを世間という集団に求められる、という風潮が全くなくなったと は言えないだろう。

天皇を中心とした「神の国」ではないにしても、世間の価値観を中心とした 「集団の国」という言い方がそれほど的を外しているとは思えない。世間の価 値観、あるいは規制とはどういったものだろう。

「世間の道徳とは、どこにもその主体も原理も明確にないような曖昧模糊とし た道徳律とも言えない道徳である。」−参考・「倫理21」柄谷行人(平凡社)−

その世間という集団は、「三国人」発言を許したのだ、とまでは言えなくても、 早くも忘れ去ろうとしている、とは言えるだろう。

ひょっとしたら、「神の国」発言は、世間という集団の被害者意識をストレー トに刺激したために猛反発をくらったにすぎない、と捉えることができるのか もしれない。他へ与える影響、世界における国家を主体とした関係性を最初に 危惧したのではなく、内輪の論理で世間が動揺することを優先的に杞憂した被 害者意識による反発。「神の国」、に対して様々な思惑のある中高年の方々の 思想中枢、あるいは戦中・戦後の被害者心理を直接的に刺激したということも あるのではないだろうか。

それに比して「三国人」発言は、世間という集団の被害者意識をストレートに 刺激するのもではないだろう。日本ではなく、他国の人々に向けられ放たれた 言葉だ。

一方「神の国」発言は、上述したように日本人のアイデンティティの問題に直 結する。世界と関わっていく上で障害となり得るという点で、「三国人」も 「神の国」も同等に扱われるべき失言であるはずだが、何度も何度も自らの アイデンティティに罅(ひび)を入らせないかのように問いただされたのは、 「神の国」発言に対してであったように思う。

「国際化」を意識するということは、「神の国」よりむしろ「三国人」発言に 対して敏感になるということではないだろうか。

▼〜「キミは太っている」と言ってしまった石原都知事〜

●「明暗」を分けた、失言の「その後」

「三国人」という言葉を発した石原都知事が、お粗末発言をしたとして槍玉に 上がっている。とは早くも過去のことになりつつあるのだろうか。「神の国」 は撤回を求められても、「三国人」はだいぶ寛容に扱われているようだ、とい うことは先にも述べた。失言に対するマスコミの集中放火の後でも、都知事の 勢いは衰えていない。しかし、都知事の趨勢については、ここでの主眼とはし ない。

「三国人」発言は、人種差別撤廃条約にも抵触し、来年ジュネーブで開かれる 委員会でも問題にされるだろう、という見解もある。そういった国際舞台でど う裁かれるのかという論議や対策、そして懸念してるという話は、どのメディ アでもあまり聞かれない。

今回、「三国人」と「神の国」この二つの失言は、明暗を大きく分けた。 「三国人」発言直後には、支持率がアップしたと報じられ、「神の国」発言後 には、支持率が急降下した。

政治家にとっては彼ら自身の進退が最大関心事なのかもしれないが、ここで用 いた「明暗」とは、これら二つの失言に対する一般市民の反応が大きく違った、 ということである。各メディアは、その表層だけを伝えたが、報じた後の結果 に対してはあまり関心がないように見えた。

「三国人」の失言直後に、支持率がアップした、という結果に対してである。

「三国人」発言に対して、新聞各社は一丸となって総攻撃をした。失言だ、差 別だ、と揚げ足をとって鬼の首でもとったように騒ぎたて、まるで幼児のよう な印象すら受けた。

人種への差別や偏見がいかにシリアスな問題であるかということが、読者であ る一般市民へ伝わったのだろうか? 伝わっていなかったということが、失言 直後に支持率アップ、という結果を招いたのではないだろうか。というような 危機感は、今にいたってもほとんどないように思う。

明らかに「三国人」は差別用語の意味を孕んでいた。しかし、新聞をはじめ各 メディアから肝心なことがあまり伝えられていなかったために、べつに構わな いだろ、というような支持率アップに繋がった要因の一つではなかったかと、 他のアジアの人々に捉えられても不思議はないような気がする。

●世界の現実

世界を考えた場合、石原都知事の失言は、また違った角度から見ることができ るかもしれない。世界のどこか、同じ地球上のどこかで、深刻な人種間の問題 が噴出している所がある、ということをとりあえずわたし達は、読んだり聞い たりすることはできる。たとえばアフリカのジンバブエ。

人口1200万人のジンバブエは、そのうちのたった7万人、つまり全人口の1%の 白人が農地の6割を所有し、黒人就労人口の1割を雇用しているという現実があ るらしい。人種の問題が、ストレートに生活に関わってくる。

ならば黒人が主導権を握って国家を独立させればいいか、というとそう単純で はないことが歴史をみればわかる。1960年代に起きた黒人主導の独立国家を作 る運動のすべてが、良い結果もたらしたわけではなかった。農場主や行政に携 わる白人を追い出したために、独立後の政策がうまくいかず失敗するケースが 多かったのだ。

そして記憶にも新しいタイ・バーツの切り下げに端を発する東南アジアの経済 危機の余波は、政策不安定な独立国にさらに追い打ちをかける。通貨が急落し、 外貨準備が底をつき、IMFからも支援を求められず、インフレがひどくなり、 失業率が70%という状態。最悪と言われる日本の失業率は、現時点で4.9%だ。 〈田中宇氏の国際ニュース解説より。
 詳しくは、http://tanakanews.com/a0501zimbabwe.htm〉

植民地主義、白人支配から逃れ、自分達と同じ黒人主導者に希望を託した人達 は、「複雑な気持」などというような日本的な「単純」な話では片づけること はできないだろう。独立国として経済的に自立していくことが難しいという現 実。経済の破綻から国民の目をそらすために人種の対立を煽り、自らの保身と 延命を図るかつての希望だった指導者。失業率7割。20年前より3割下回ってい る国民平均所得。やはり白人の指導のもとで支配されるしかないのかという絶 望と挫折に揺らぐアイデンティティ。

肌の色が、歴史、経済、政治、生活と複雑に絡み合いながら、自分の存在に関 わってくる。肌の色が、自分の人生と決定的に関わってくる、という人達が世 界にはたくさんいる。とわたしたちは、あくあで想像することはできる。

●日本のTVでは、「ここがヘンだよ外国人」

日本では、そういった世界の現実からあまりにもかけ離れているような発言が、 日常的にテレビで見ることができる。以前、「ここがヘンだよ日本人」という バラエティ番組で、人種問題がテーマに上がっていたことがあった。何人かの 黒人出演者たちが、日本での生活において腹が立ったことの例をいくつか上げ、 日本人のここがヘンだと指摘する。

その一つに、「なんで日本人は、わたしたちの手を見て、手のひらだけそんな に白いのかと聞いてくるんですか?」という、ある一人の黒人の苛立ちを取り 上げたものがあった。

その経験談に敏感に反応した他の黒人出演者たちも、口々に日本人の無神経ぶ りを指摘し始めた。ついには、あなたたちは、ただ欧米が素晴らしい、欧米の 価値観に影響され、欧米の真似をしてるだけ! と核心をつくような発言も飛 び出してくる始末。ガーナ人や今ではすっかり有名人となったベナン国のゾマ ホン氏などが、怒りを剥き出しにして叫んでいた。   その騒ぎに対し、同番組に出演していた人気番組のプロデューサーとしても名 高いテリー伊藤氏はこう切り返した。

「日本人は、べつに差別だと思って言ってるわけじゃないんだよ」

騒ぎが、さらに大きくなったことは言うまでもない。テレビ界におけるカット・ オフレコ編集、あるいは臨場感に欠けた平面伝播によるせいか、視聴者は「そ うなんだよ、差別とは思っていないんだよな」と賛同してしまうような構成に 変わっていたのかもしれない。

ギャーギャーわめきたてる外国人vs.日本人。

TV画面から伝わってくるのは「ここがヘンだよ外国人」だ。

逆に、日本人が肌の色で差別を受けることはあるだろうか。ひと昔前、イエ ローキャブという言葉がよく使われていた。非常に揶揄的に用いられていたこ とは確かだが、日本の女性は世界一モテる、というかつての性的需給関係を考 えると、差別を受けていたという感じでもない。お金があって、ブランド品を 身につけ世界を外遊している、という経済的豊かさの反映とみることもできる。

また、欧米に滞在するアジア人が、「バナナ」と言われることもあるらしい。 しかし、手のひらが白いという指摘と、たとえば日本人がアメリカなどで「バ ナナ」と言われるのとでは、言葉を受けたときのショックはだいぶ異なるだろ う。周知のことかもしれないが「バナナ」とは、見た目は黄色人種のアジア人 でありながら、アングロサクソン系に見られる他を圧倒するような自己主張、 攻撃性を備えたアジア系の人達を指して使われる言葉だ。黄色い皮に覆われて いるが、果肉は白い、外見と中身が違うという比喩だ。

たとえば、「ここがヘンだよ日本人」に出演している何人かのアメリカ人の中 でも特に目立った主張を展開する、ケビンのような人、と言えばピンと来る方 も多いのではないだろうか。

しかし、こういった人種の問題を考えていて、理解はできるけれども、実感と してはなかなか捉えにくい、という感想が正直なところなのかもしれない。 テリー伊藤氏が、ジンバブエで起こっているような世界の現実をまったく知ら ないとも思えない。それは石原都知事についても、同じことが言えるだろう。 自分についても、そうだ。

●身近な「他者」

遠い世界へ想像をめぐらすだけでなく、もっと身近な問題として捉えることは できないだろうか。たとえば異性のことである。

異性という「他者」を意識したとき、数年前の林真理子氏の妊娠会見における コメントが思い浮かぶ。一連の失言騒動と、発言への注意力という点において 同質性があるように思われた。

ワイドショーにおける、いわゆるご懐妊発表のインタビューである。「おめで とうございます」というワイドショーのレポーター達に対して、林真理子氏は こう答えた。

「わたしは、わりと体が大きい方なんで、妊娠してもあんまり分からないんで すよ」

あははははは、ほほほほほ、とレポーター陣もご満悦。 テレビ画面から伝わってくる場の雰囲気は、すごく和やかなものだった。

もしこのとき、「わたしは、わりと太ってる方なんで…」と続けられたらどう だろう。一瞬、凍りつくかもしれない。社会的な制約の中にある女性という 「他者」を意識して、あわててしまう、といった方が適切だろうか。歴史や文 化、そして偏見に近いものも、少なからず関係しているように思う。

たった動詞の一語の違いであるが、林真理子氏の受け答えをテレビで見ていて、 ものの言い方というのはすごく大事だなあ、とまるでバカの一つ覚えのように 感心したことを覚えている。それと同じように石原都知事の「三国人」発言を 聞いたときも、

ものの言い方というのはすごく大事だなあ、とバカの一つ覚えが蘇ったのであ る。

「ものの言い方」とは「表現の仕方」と言い換えることができるのかもしれな い。石原都知事は、「キミは、むかし体がすごく大きかったけれども、今は随 分とスリムだね」という態度を示し、あるいはそのような言葉をきちんと発し たうえで、不法に滞在する外国人の凶悪犯罪について言及すべきではなかった だろうか。一見、政治とはかけ離れているような捉え方かもしれないが、言葉 に注意を払うことが政治家の力量でもあるとするなら、「他者」に対して注意 を払うということが、意外と国際政治を意識するということではないだろうか。

ところが、石原都知事は、「キミは、むかし太っていた(という歴史がある) から、また(犯罪を犯し)醜くなる可能性がある」というようなことを言って しまったのだ。後で何と言おうとも、自衛隊演説における文脈での差別語とし ての「三国人」は否定しようがない。

自分とは違う人種、育った環境や外部との関わり方、その感覚がまったく違う 人達に対して、思いやりとか配慮という情緒的な問題ではく、たんに言葉に注 意を払っていない、あるいは父権への過度な思い入れがコミュニケーションの 阻害要因となっている(詳細は、次号以降にて)、というようなことが失言と 関係しているように思われてならない。

当の石原都知事は、ケーブルTVのある番組のなかで「あれはわざと言ったと いうこともあるんだけど」と事実を歪曲するマスコミへの不信感と合わせて、 しぶしぶと発言していた。

わざと失言することに何のメリットがあるのだろう、は?と上目づかいで記憶 をたどるように考えずにはいられない。世間という集団の仲間意識に働きかけ て、その求心力を利用する、ということだろうか。だとしたらそのことを、反 動化、と呼ぶのではないだろうか。

しかしながら、失言の意図や失態そのものよりも、各メディアによる失言の伝 え方、それらに対する受け手の捉え方、その反応こそ注目すべきことであるよ うに思われる。

TVの釈明記者会見で辛辣な質問を浴びせていた記者団の総攻撃は、都知事を 失墜させることを目的化しているような印象を受けた。最近のニュースでもあ る、雪印の商品管理への怠慢を露呈したトップに対して、「生まれて間もない 子供が病院で寝込んでいるんです!」と絶叫しながら正義に剣をブンブン振り 回して攻撃するマスコミにも同じことを感じざるを得ない。

たとえばトップの財産の半分を没収、というような分かりやすい責任問題の追 及ではなく、トップだから(イジメの起きた学校の校長だから、と同じように) 責任をとるべきだという糾弾が、はたして問題解決の糸口になるのだろうか。 当事者だけが悪いということで、話は終わってしまうのだろうか。

 どうして手のひらが白いの? とたずねて黒人と友人になれるとは思えな い。女性に、太ってますね、と話して親しくなれるとは思えない。「三国人」 と不注意に口に出して、歴史との和解に近づけるとも思えない。

●損をしているという感覚が、政治への関心を強める

では、批判的に捉えるだけでなく、わたしたちはどうしたら社会や政治に注意 を払うことができるだろう。少なくとも従来で言われるような、道徳、倫理、 正義の心で差別をなくそう、政治に関心を持とうと働きかけられたとしても、 自発的に何かをしようという気にはならないだろう。

ピアスにスキンヘッド、ではなく丸坊主にして心を入れ替えたんだ、と友人達 に呼びかけたとしたら敬遠されると思うのが、20代にとって、いや、わたしに とって「ふつう」だ。

たとえば税金。

サラリーマン25歳〜30歳までの独身男性は、前年度の所得のうち基礎控除(必 要経費として認められるようなもの)などが引かれ、その残額に対して地方税 がかけられる。仮に年収500万円とした場合、都民税、区民税、市民税などの 違いがあるものの、国、あるいは東京都へ納めている税金は、年間およそ20万 円だそうである。(00.6.某日、東京都庁税金相談窓口調べ)

20万円といえば、去年わたしは、イタリアのペルージャへ行き、中田選手が出 場したセリエAのペルージャvs.バリ戦を最高の(一番高いチケットの)席で観 戦し、ワインや生ハムやコッチェ・ビアンコというたしかムール貝の料理なん かを毎晩飲み食いしまくってもまだおつりがくるぐらい、遊べる金だった。

たしかにホテルの予約をしたりせず格安航空券のみを買って出かけたような旅 行だったが、中心街へ向う坂の途中にある「ALBERGO AURORA」といった安 くて優良なホテルはすぐに見つかったし、ホテルの脇からまるで中世の街並み を再現したような細い道を辿って行くと、ランプを灯すようにひっそりとたた ずむ「GARIBALDI」といったカイドブックにないレストランを見つけたりする こともできた。

ある人にとっては、貴重な休日にトルコの遺跡を旅する旅費の一部であった り、スノボーのボードを買うためであったり、パソコンの周辺機器増強代金で あったり、パチンコや競馬でストレスを発散できる賭け金であったり、資格取 得のための夏期講習代、であったりするのだろう。

そうやって使えるお金を、石原都知事を頂点とする東京都に納めている。都税 として納めていなくても、都知事の発言は我々の税金によって賄われる国政に 大きく影響してくる。

楽しめる分のお金が自動的に徴収されていることを考えると、ただ受け身でい るだけでは何だか損をしているような気分に“なれる”という感覚が、“リア リティのある政治”に繋がっていくのではないだろうか。

●韓国にみる、得をするという感覚と政治の関連性

隣の韓国では、落選運動が展開され成功をおさめたことは記憶にも新しい。そ の影響を受けてか、日本でも政治家ランキングがネット上で公表されたりして 落選運動が繰り広げられた。しかし、その落選運動の動機となる中身は、日本 と韓国ではだいぶ異なるようだ。

「インターネットで日本が韓国に敗れる日」(桐山秀樹-新潮45.7月号)では、 要約すると、次のように述べられている。

韓国ではすでに、インターネットを土台にして、世界や事物を見ることに慣れ 始めた“ネッティズン”(Nettizen)<ネットとシティズン(市民)の合成語 >が生まれている。

ネット上では不可能はない、というネッティズンの意気込みと新しい知恵によ る活動の一つに、株式市場の株取引を利用した「ポスダック(POSDAQ)」と いう、政治家に対する投資や評価を判断したりする政治証券市場がある。学生 の手によって開かれた市場だ。

ポスダックと呼ばれる政治証券市場では、実際の政治家を上場させ、韓国の国 益を追及する政治家に対する個人投資を制度化することが狙いだった。

このポスダックに参加するのに、特別な資格基準はなく、インターネットが使 えれば誰でも無料で参加できる。参加の際に、会員一人当たり、サイバーマ ネーが与えられ、政治家を企業に見立て投資の判断をすることができる。

民主的な交流ということに関しても、株価に見立てられ30位以内に入る優良株 である与野党議員と、130名余りのネッティズンによって意見を交わす「政治 少数株主総会」が昨年には開かれた。

株価は、金大中大統領が24万ウォンでトップで、第一党のハンナラ党の金文珠、 金映宣、金洪信などが常に上位にランクされているが、次世代指導層の一番手 として名乗りを挙げている金民錫は、現大統領・金大中を脅かすほどの勢いが ある。

韓国民が制限されてきた間接民主主義に対する直接民主主義への要求の爆発だ と言えるでしょう。さらに重要な点は、このような運動が伝統的な政治学でい うところの市民社会の政治意識が成熟した結果として起こったことではないと いうことです。

−(筆者モカ)このように株式の方法を政治家選びに用いた場合、投票、つま り投資の判断材料を検証するということは、まず政治家の政策や方針を知ると いうことであり、それがどのように国益をもたらすか、どう自分に関わってく るか、という思考過程を抜きにしては予想は立てられない。従来でよく言われ る、より良い政治を、より良い国を、という伝統的な政治意識に根差す動機が あるわけではなく、投資というある意味ゲーム感覚で政治家のデータを調べる 作業が、結果的に多くの若者が政治に関心をよせている、ということになるの だろう。−

さらに、日本やアメリカの政治家を対象とした、仮想市場も計画されている。

ということに韓国の事情はなっているらしい。

このような韓国民気質、また、やむにやまれぬという状況に突き動かされてイ ンターネットというメディアに知恵を絞って取り組んだ結果が生み出した、と いう落選運動の背景には強く魅かれるものがある。しかも学生による新しい試 みが発端となっている。

儒教圏の中国や韓国にも道徳的基軸があり、それが逆接的に、一種の個人主義 を可能にしている−「倫理21」柄谷行人(平凡社)−という道徳律が関係して いるかは分からない。

しかし分かることは、自分達が「得ること」という明確で正直な目標に向かっ て落選運動が展開されていた、ということだ。

有権者という権利を7年間無視しているわたしでも、もしこのような政治証券 市場があり、そこに「予想変動掲示板」などがあったとしたら、「身内の不幸 が“キッカケ”となるのは、どこかおかしい。」などと演説をぶってる可能性 もある、と思った。

●これからのこと。

以前、韓国ではないが、香港出身の友人がいた。英語を日常的に使っていて、 日本語は本を読まない日本人よりかは遥かに流暢で語数も多く、つまり日本語 を正確に数多く知っていて、もちろん母国語も話せるという、Macの出力セン ターでのアルバイトで知り合った留学生だ。そのような友人は貴重だったのだ、 と認識するには当時あまりにも無知だったことをわたしは後悔している。

韓国の人達とは知合になる機会はないだろう、外国人と仕事で関係することも ないだろう、と非常に狭い生き方を知らず知らずのうちに設定していることへ の嫌悪を意識的に抱こうとすれば、「三国人」発言に対して「あなたの発言は 迷惑だから言葉には注意を払ってくれ」(作家に対して… であるが)という ような問題意識が自然と芽生えてくる。

 国民とかナショナリズムといった意識はまったくないけれど、とりあえずぼ くたちは日本人なわけで、今後アジアの人達と知り合ったり仕事で関係した ときに、そういう発言はわざわざ国民感情を呼び覚ますから止めてくれ、と。

 あるいは今後、韓国人の友人ができた場合を想定してみる。

「“三国人”って金さんも知らなかったんですか。じつは、ぼくもほとんど知 らなかったです、都知事の発言が問題になったときがあったと思うんですけ ど、敗戦によるコンプレックスや戦後の混乱に端を発する危険思想をぼくは 持ってないというより実感もできないですよ、お互いに戦後30年ぐらいたって から生まれてるわけだから通じる部分はあると思いますけど、都知事が言った ことを日本人全体の考えとして捉えるのは、戦前、戦後、高度経済成長後とい う時代区分や歴史をゴチャ混ぜにするようなもので無理があるだろうし、ぼく たちの意識とは大分ズレてますよね」

というようなことを話す準備をしておくのも、これからのこと、ではないだろ うか。

 「三国人」にしても「神の国」にしても、必要以上に騒ぎ立てたり、ただ嘆 くだけ、というような反応の仕方にはあまり意味がないような気がする。

 よりよい社会を、よりよい国家を、よりよい国際化を、といったスローガン に身をゆだねるよりも、日本人以外の人達と知り合う機会はない、という非常 に狭い生き方を自分に設定している、ということへの客観的で個人的な問いか ら問題意識を発した方が有効なのかもしれない。有効とは自分達にとって有利 な社会を作り上げること、とも関わってくる。税金、お金を払っているぶん、 意識的に迷惑だということを表明する習慣を身につけることもその一つである ように思う。

●「三国人」発言直後に支持率アップ、という結果から考えられる風潮

「三国人」発言直後に、支持率がアップした、という一般市民の反応は、繰り 返しになるが何かを暗示している。

具体的には、「石原都知事の決断力・実行力という政治的手腕と、「三国人」 という失言を生んだかもしれない背景とそのパーソナリティを、混同して支持 している」という民意の反映であったかもしれないということだ。

「今回の石原都知事の失言は、PC(ポリティカル・コレクトネス)に反してい て絶対に許されるものではないと思うが、久しく見ることがなかった政治家の 決断力・実行力において、私は今のところ彼を信頼している。」という支持で あるか、

「三国人?べつにいいじゃないか」というような支持の仕方とでは大きく異な るだろう。

日本は今、外圧により変化を求められているとよく言われている。しかし、も し人生も後半にさしかかった人達が急に変化を迫られたとしたら、絶望に近い アイデンティティの揺らぎを感じるのではないだろうか。そういった状況下で は、本音が出やすいのかもしれない。正直な本音というのは、たいていは好き 嫌いの感情による自己欺瞞であり、自分だけの利益を優先させる、ということ は、龍声感冒(http://www.ryu-disease.com/index.html)という作家・ 村上龍氏公認の掲示板などで論議がみられたこともあった。さらに正直な本音 が差別を生むことは、歴史の証明を待つまでもない。

自己が保てないような社会にあるとき、石原都知事のような強いパーソナリ ティに自己を投影する傾向にある、という見方には無理がないような気がする。 基本的に若者は政治に関心がないということを考えると、失言直後に支持率ア ップ、という一般市民の反応は、どちらかといえば中高年以上の反動化といっ た風潮の反映ではないかという推測もできる。

このような一般市民の反応が、現代に生きる人々の心理的な何かを象徴してい るのではないか、というようなことをとりあえず自分に関わってくる問題とし て捉えてみたい。

●「スパルタ教育」が直面する問題点

〜無根拠なコミュニケーションを維持するには、個人的にも社会的にも、金が かかる。〜

石原都知事の教育論そのものを論じることはここでの対象とはしないが、ほぼ 30年前に、石原慎太郎氏が教育問題をテーマに著した「スパルタ教育」にまつ わるエピソードには、今この国で生きる者として現実的に考えると息苦しいも のがある。

都知事が支持される原因の一つを探っていくように読むと、何となく見えてく るものがある。絶版となっている本だが、ご子息でもあり俳優の石原良純氏の エッセイに、その本にまつわる詳細が記されている。

『30年以上も前に(1960年代)「スパルタ教育」が上梓されたとき、オヤジは 30代半ばで、気鋭の作家が憂国の情にかられて政界に踊り出たばかりの頃だっ た。裏表紙には、父親とその息子である僕ら4人の写真が載っている。怒る父 親、怯える子供。そんな撮影現場でも、常に母親はオヤジの側に立って、「お 父さんがこう言ってるから」「お父さんが、こうするから」と頭に“お父さん” が付けば石原家ではそれが絶対命令になる。子供は、物を壊したり兄弟喧嘩で 怒られるのが常だと思うが、ウチの場合は、父親の安眠妨害で叱られるときが 一番多かった。「兄弟の順序をはっきりさせろ」なんてのも腹が立つ。家長意 識の強い長男である父親の、長男優遇主義が伺える。』

母親の石原典子氏については、次のように述べられている。

『40過ぎてから、スキーをやったりダイビングをやったり、母親のバイタリ ティには驚かされる。それはなにも、遊びに限ったことではない。母親は、30 過ぎてから大学受験に挑戦している。子育てが一段落したら大学を受験するこ とは、高校を卒業してすぐ結婚した母親と父親の昔からの約束だったそうだ。 一浪して予備校に通って、2年目に見事に合格を果たした。改めて当時の母親 の頑張りに驚かされた。魑魅魍魎の住みかに嫁ぎ、あの父親と寝食を共にし、 男4人を育てればこそなせる業なのだろう。夫婦は絶対に似てくる。いや、 「スパルタ教育」に一番感化されたのは、親父との付き合いが一番長いウチの 母親なのかもしれない。』

そのほか、“教師に子供を任せるな”“先生を敬わせるな”“先生と親との意 見が食い違ったときは、親に従わせよ”といった現在でもうかがえるような記 述もあったが、それはともかく上述したものから再認識するように改めて分か ることは、「石原都知事はとんでもなく父権の人」ということである。

そういった都知事のパーソナリティや、その背後にあるものへの指摘は、新聞 やテレビではあまり聞かれない。

30数年前に限っての家族のあり方が「兄弟の順序をはっきりさせろ」であるな ら別としても、現在もそういった家族イメージを引きずっているのだろうか。 一般市民が、それらを含めて都知事に魅力を感じているとするなら、子供と友 達のように付き合う堕落とされるファミリーパパとはまた対極にある、「ただ 威張ってるだけの無理のある父親」という無根拠が求められている風潮にある という見方もできる。

「ただ威張ってるだけでも先輩は偉い、弟より学習能力が低くても兄であれば 偉い、酒乱暴力夫でも父親はとにかく偉い、土地への投機を続けろというような 理不尽な命令をしても上司は偉い、やっぱり男は偉い、会社は偉い、官僚は偉い」 という無根拠。これが“トップダウン式社会の無根拠”な部分である。
(わりと低年齢層の方々から、分かりにくい、との御指摘部分)

その無根拠につながる考え方が、「父権の復活」、あるいは「天皇制の問題」 「神の国」発言などと関係している部分があることを、世代的に語るとすれば “わたしたち”はほとんど知らない。あるいは理不尽とも思える「三国人」発 言の根拠が、じつは、その無根拠に起因しているのではないかということも。

ここで注意したいのは、石原都知事がそういった無根拠を望んでいるかどうか、 ということについて論じるのではなく、我々がメディアを通して受けた印象、 また、どういった捉え方をし反応を示しているか、という動きに注目した方が 我々自身の問題として考えることができるだろうということだ。

Newsweekのロバート・サミュエルン記者はこう述べている。
「変化を管理するのではなく、古い日本的な慣行によって変化が覆い隠された 場合、あらがうことのできない圧力が破壊的なまでに高まっていく。」

現在、この無根拠なコミュニケーションが残存していることが、世界や時代と いった外圧による変化への立ち遅れを生んでいる。また、そいういった状況が 覆い隠されることによって、政界から、官界、企業、大学、学校、家庭内のい たるところまで、様々なシステム疲労や破綻を生み出している要因の一つであ るということも言われている。   また“スパルタ教育に一番感化された”とある母親に対する良純氏の言及にも、 近年にそぐわないと思われる無根拠が随所に見られる。30後半も過ぎて大学に 合格した母親のバイタリティには驚かされたとあるが、それはすでに老後を視 野に入れた人達の生涯学習、趣味の一環としてということだろうか。現実的に 考えて、日本の大学を40歳近くで卒業して、好条件の就職先があるとは思えな い。自立するための受講とは受け取りにくい。もちろん生涯学習という姿勢が 大事だということかもしれないが、税金によって運営が可能となる大学とは一 体なんのためにあるのだろう、という疑問につきあたる。少なくとも、趣味人 の養成よりも、結果的に国益に反映するような人物を養成する機関としての大 学の方が、税金の使い道としては正しいはずだ。

スキーやダイビングにしても、単純に10代から始めた方がすぐに上達するし、 それによってよりスリリングな楽しみ方ができるだろうし達成感もあって充実 感もあって面白い、と考えるのが、しつこいかもしれないが「ふつう」だろ う。仕事をするようになれば、いってみれば誰でも生涯学習という姿勢が求め られるのだろうし、それに比べて、将来を見据えた学習はなるべく早い時期に やった方がいい、というアナウンスはあまりにも少ない。

“嫁いだ嫁は働く必要はない”ということかもしれないが、男女がお互いに自 立してそこそこの生活を維持していく、という婚姻形態が成熟社会の限界であ り、また理想でもあるという現実に直面している20代の男(女性も同じだと思 うが)としては、仮に自分の結婚相手となる女性が40歳近くで大学を卒業する ことがそれほど賞賛に値するのか、という疑問とともに自分達のヴィジョンと してもまったく現実味を帯びてこない。大学も卒業するにしても若いころに学 士を取得し、その後バリバリ働いていてスキーやダイビングに限らず、充実で きることをやり続けられる環境が整備されている方が、バイタリティのある社 会になるのではないだろうか。

企業慣行の改善とフェアな政策がなされていることが前提であるが、40歳間近 で大学を卒業するよりも、若いうちに卒業して社会的にも経済的にも自立でき た方が、女性にとっても好ましいということは言えるだろう。また、男の側か ら見ても「サラリーマン−専業主婦」という中流モデルを維持することは、現 実的にほとんど不可能であり、パートナーが経済的に自立していてくれた方が、 余裕ある生活ができることは間違いない。 (参考:「パラサイト・シングルの時代」山田昌弘著、ちくま新書)

「子供3人の育児と家事労働は全部やってくれ」というようなことは言えない というより必要性を感じないし、また「子供の子育てが終わってから大学でも 行きなよ」なんて悠長な話も理解に苦しむだけだ。

「おれは料理を作ったりはしないし出来ないし、まあコンビニよりもたまには 手作りの料理を出してくれたら嬉しいけど、べつにそれを求めようとは思わな い。自分の稼ぎによるけど。ここ数年一人で暮らしてるけど洗濯なんて電源・ スタート・ボタンだけで後は全部やってくれるし、部屋なんて気が向いたら掃 除すればいいし、よくよく考えると従来の家事労働って、おれほとんど自分で やってんだよ。育児や家事労働(だいたい家事労働って言い方とか、それが義 務となってしまう婚姻形態をとる必要ってある?)に関しても基本的にお互い の収入の比率に合わせて分担すればいいでょう。5:2でおれが5稼いでたら、 ○○が週5日分をやり、あとの2日分はおれがやる。逆だったら週5日分はお れが育児や家事をすることになるけど… でもこれはあくまでも基本で、細か いことは臨機応変ということで。顔を踏んづけられても、赤ん坊っていうのは 可愛いもんなんでしょ。子犬のときだけ可愛がるみたいな感じかもしれないけ ど、ずっと腹の上に乗っけてあやしてるかもしれないし。でもオシメを換える のは愛情がどうこういう問題じゃないから、収入の比率で分担しよう。」

こういったことはとくに違和感なく自然に話していることかもしれない。社会 が要請していると言った方がおそらく正しい。社会の状況に適応しようとす ると自然に上のような話になる。これからの将来を考えると、石原都知事の家 族イメージはやはり不自然であり、すでに現実的にほぼ不可能であり、時代が 別の家族モデルを要求している状況にある。というより一つのモデルだけでは なく、複数のモデルが存在してもいい、という状況だ。

実際には、様々な婚姻関係があるのかもしれないが、顕在化するほどのアナウ ンスはないし、少子化に歯止めをかけるための福祉が充実しているとも思えな い。今さら男は偉い、父親は偉い、長男は偉いという無根拠な家族モデルを求 めたところで、現実とのギャップが広がるばかりである。

また少し話がそれるが、別のところでも“ズレ”を感じることがある。

賞金1億円という「石原裕次郎を探せ!グランプリ」なるものがあった。しか し、“石原裕次郎”が“スター”だと知ってはいても、「太陽の季節」ではな く「太陽に吠えろ」の再放送で初めて知った“あの人=ボス”が、“カッコよ かった”ということを、ぼくらは知らない。

純スポーツ刈り、上野のアメ横の魚介売り場、スクール水着、ギャグのないマ ジメな筋肉マンのアニメ「あーこころにー愛がなーければー、スーパーヒー ローじゃーないのっさー」。 イメージとしてはこんな感じだ。



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