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Thinking like Singing ―― 自由に法哲学 小林 和之 |
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Act2 発端 |
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それは1枚の写真から始まった。誰もが見たことがあるような類の写真だ。 写っているのは幼い黒人の子ども。裸でうずくまる手足は、信じられないくら い細い。それなのに、お腹はぽこんと膨らんでいる。 それを初めて見た、ある日本の子どもは、意味が分からず混乱してしまった。 「お腹が出てる=太ってる、でもあの手足は?」それでもなんだか、その姿の 無視できない迫力に押し出されるように彼は声を上げた。「服を着せてあげな きゃ。寒いし、恥ずかしいし」 彼の側にいた大人はもちろん、彼の誤解を訂正してやった。これは暑い国の写 真だから、服はいらない。あの子に必要なのは食料。お腹が膨らんでいるのは、 飢えているから。極度に飢えるとそうなるんだ。 「でもどうして」彼には納得できなかった。食べるものは、彼の周りにはいっ ぱいある。食べられるものが捨てられている。あの子にあげればいい。どうし て放っておくの。写真を写していた人は何をしていたの。このことを知ってい る人はなぜ何もしないの。 そのときに大人がなんと説明したのか彼は憶えていない。たぶん、たいしたこ とは言ってもらえなかったろう。"だから、自分の身の上に感謝しなくちゃい けないのよ"とかいう類のお定まりの教訓を聞かされた程度で終わったはずだ。 大人はけっきょくなんにも知らないんだと彼が感じたのはこれが最初だったか なかったか。「こんなのヘンだよ」彼の感じた感覚がぬぐい去られることはな かった。 とはいえ、ずっとそんなことを考え続けていたわけじゃないのはもちろんだ。 近所の子どもたちと遊んだり、本を読んだり。身の回りのことのほうが彼にと ってははるかに重要で、この写真のことを改めて考えたりはしなかった。 ただ、彼はその日から、食事に文句を言わなくなった。残さず全部食べるよう になった。「残すのはみっともない」「まずくて食べられないものなどない」 これはもう、信念というよりか、彼自身の一部になったような感覚だ。ずっと 後になって、アルバイトをしていたレストランで、彼は生涯ただ一度の敗北を 喫することになるのだが、それはまた別の話である。 21世紀はヤバイ。 このままでは、22世紀はひとびとに訪れないかもしれない。その危険に対して ひとりの人間に何ができるか。そもそも何かできるのだろうか。この問題を考 えるとき、そして自分が何をしようとしているかを思うとき、わたしには必ず 彼のことが浮かんでくる。飢えた子どもに、「服を着せてあげなきゃ」と考え た彼のことが。 わたしは、とんでもない見当違いのことをしているんじゃないだろうか。 それから、彼女のことを思う。「日本をよくするにはどうしたらいいんでしょ うか」と質問に来た彼女のことを。そして、彼女に自分が答えたことを頭の中 で転がしてみる。そのなかのいくつかのことは、彼女を非常に驚かせたのだが。 どこから手を着けたら分からないときには、とりあえず身近なところ、できる ところからはじめる、というのが常識的な考え方かもしれない。しかし、こう いう小話を知っているだろうか。 街灯のそばで、男が捜し物をしている。そこへ通りかかった男が声をかけた。 どうしました? 身近なところ、できるところから始めるというのは、この小話の男と似てはい ないだろうか(悪い意味でも、そしていい意味でも)。手を着けられる場所が限 られているとしても、本来の目的への見通しはとても重要だ。たとえ場所を自 由に選ぶことができないとしても。 わたしは日本法哲学会という「社会的に無意味と言われても仕方がない集団」 の改革に見えることを、学会報告で提言した。はたして、これは適切なことだ ったろうか。正直なところ、わからない。会員の反応はかなりガッカリさせら れるものだったし。だが、わたしは22世紀までの見通しを持ってこの報告を行 なった。 可能性の低さを考えると、ほとんど妄想の世界と言われても仕方のないことだ が、わたしは法哲学界の改革を、人類(ひとびと)の知的世界*1 の再編成のモデルケースにしたいと思っていたのだ。 モデルケースに選んだのは、わたしがたまたま日本法哲学会に所属していたか らというだけの理由ではない。ひとびとが無事に22世紀を迎える上で、法哲学 はきわめて重要な役割を果たしうると考えるからだ。確かに、わたしがここに 所属していたのはいくぶん偶然で、とても幸いなことだった。わたしが、山口 組系暴力団に所属する「鉄砲玉」だったりしたら、とてもじゃないが身近なと ころから手を着けるわけにはいかなかっただろう。 身近なところなら手が着けやすい? まあ、着けやすいかどうかは比較の問題だ から、ローマ法王庁の改革よりははるかにましだとと言っていいだろう。でも、 具体的になにをすべきか。日本法哲学会は、わたしの目から見ると問題だらけ なのだけれど、それに安住している(かに見える)会員たちをどうやって動かし ていくのがいいんだろうか。 理事会に働きかけ、総会で提案し、ねばり強く説得を続ける。これが正攻法で あることはいうまでもない。だがはたして正攻法が通じるか、という以前に、 わたしにこの選択はあり得なかった。正攻法には時間がかかる。わたしにはそ の時間がなかった。 時間がない。これは「環境問題」でも強く意識せざるを得ないことだ。問題を 処理するためには、社会のあり方が変わらなければならない。そして、それに は時間がかかる。かなりの時間が。われわれにその時間はあるんだろうか。 焦らずじっくりと。慎重によく考えて。なにかを変えようとすると、常に出く わす意見だ。もちろん、それ自体としては間違いではない。あまりにもしばし ば、何もしないことの言い訳に使われることばではあるけれど。だが、それで は間に合わない場合がある。 大学というのは、多かれ少なかれぬるま湯につかっているような状況だ。この へんはどのお役所も同じだけれど、たぶん一番ヒドイ。他のお役所は(部署に もよるが)とにもかくにも、要望に対応しなければならないから。大学はそれ がほとんどない。何もしたくない人間にとっては、これほど楽な場所はない。 何もしないためのもっともらしい言い訳はたくさんある。そして、何か変えよ うとする人間にとってこれほどやっかいな相手はない。ほんのちょっとしたこ とでも、前例がないことにはものすごい抵抗がある。 いま大学と言ったが、学部による違いは非常に大きい。わたしは法哲学界を通 じて法学部そして大学を見ている。法哲学は、法学部で最悪の部分ではないか と思う。こう言うと「法制史よりはましだ」的な意見を言う人もあるが、「ア イツがサイテー」的泥仕合に加わる気はない。重要なのは、法哲学界に改善の 余地が大いにあることだ。 どうして日本の法哲学界はこんなにも知的に貧困なんだろう。論文を読んで、 "他人の書いたものの切り貼りがほとんどで、まるでいやいや書かされた小学 生の夏休み感想文のようだ"と思うことは珍しくない。日本法哲学会会員の論 文を読んでいると、ときどき自分がとてつもなく頭がいいような錯覚にとらわ れて不安になることがあった。そういうときは、数学史や科学史*2の本を読むことにしていた。そうすると安心できる。よかった、自分がとうていおよびもつかないほど頭のいい人はたくさんいる。 でもどうして法哲学界にはいないんだろう。 これには、やむを得ない事情がある。現実による検証とフィードバックの機会 がないということだ。 メールマガジンの読者ってどんな人だろう。やっぱりパソコンとかばりばり使 いこなしているのかしら。プログラムができる人には、こういうと分かりやす いと思う。BASCでも、Cでも、なんでもいいけれど、プログラムの勉強をする ときに、紙の上だけでできますか。デバッグ環境どころか、そのプログラムを 実行するパソコンすらない。そういう環境で、まったくプログラムの経験がな い人間が本を読んでプログラムの勉強をして、いいプログラムが書けるように なりますか。そういう人が書いた、一度も実行していない複雑なプログラムが ちゃんと動くと思いますか。 プログラムをよく知らない人は、ちょっと不正確になるけれど、「畳水練」を 考えてもらうのがいいだろう。一度も水に入ったことのない人が、泳ぎ方を自 分で考えたとします。その人はプールや海で考えたとおりに泳げるでしょうか。 法哲学ってそうなんだ。自分の理論がうまくいくかどうかを実際に試してみて、 そのデータをもとに理論を修正していく機会がない。そういう状況で理論を組 み立てていると、どうかすると観念の自己運動、妄想の一人歩きに陥ってしま う。法哲学は、常にそういう危ない橋を渡っている。 じゃあ、相手にしなければいいのに。 実際、そういう類のことを言われることもある。頑迷な法哲学界なんか相手に せず、小林さんが思うことを自由になさったほうがいいのではないでしょうか。 ときどき、そう思う。それどころか、いつかふと我に返って、すべてを放り出 してしまうんじゃないかという気がする。自分が目を凝らして見通そうとして いること、微かに見えていること。こんなのはすべて錯覚じゃないのだろうか、 と。そう、妄想にとらわれているのはほかならぬわたし自身じゃないかと。 あなたは、大学で論文を書いているより老人ホームでおむつを替えていたほう がよいのではないか。 前回でも触れた、学会案内に載せた報告要旨の冒頭だ。わたしにとっては、こ れは、「過激な挑発」じゃない。これは、いつも自分に問いかけ続けてきた疑 問なんだ。 わたしは、どうして、ここでこうしているんだろう。どうして「現場」に出て、 もっと役に立つことをしないんだろう。後方でぬくぬくといい暮らしをしてい て平気なんだろう。世界中では、5歳未満の子どもが実にツマラナイ理由で2.5 秒にひとり死んでいっているというのに。いや、それがどうでもいいと考える のは自由だと思う。自分に責任はないと思えるんなら、幸福なことかもしれな い。だが、そういう事態に自分が関わっていると気づいてしまったわたしが、 どうしてまた、ここでこうしていられるんだろう。 もちろん、「現場」に出れば何かスゴイことができるというのは幻想なんだ。 これについて、「カブール・ノート」の山本氏と話したことがある。彼は現場 を知っている人間だ。「机上の空論」に対応するなにかが現場にあると彼は言 った。わたしは「現場の勿論」ということばを考えて、幸い気に入ってもらえ たのだけれど。 そう、それは分かるんだ。現場の「確かさ」がもたらす問題があることは。 歯を食いしばって現場に踏みとどまる人間が必要なら、歯を食いしばって後方 に踏みとどまる人間も必要なのではないか? ヤレヤレ、後方でぬくぬくとしているのに何て都合のいい理屈なんだろう。 それでも、わたしは後方でなし得ることが確かにあると信じていて、そのため に何ごとかをしたいと思っているのだ。 ダグラス・エンゲルバートという人物をご存じだろうか。パソコンの必須アイ テム、マウスの考案者だ、という紹介は、あまりにも彼に失礼だろう。コンピ ュータ・サイエンスの巨人とも言うべき人であり、"Networked Intelligence" の可能性をもっとも早くから見通していたひとりだ。彼は、1999年12月にスタ ンフォード大学で行なわれた学会で「共同体としてのIQを増幅する」と題する 講演を行なった。その中で、彼は自分の生涯の研究目標は「切迫している複雑 な問題に対処するために、人類の共同体としての能力を可能な限り大きくする こと」だと語った。そして、その障害になっているのはテクノロジーではなく、 わたしたち自身、「人間システム」だと主張した。 わたしの目標の半分は彼と同じだと言ってもいい。「人類の共同体としての能 力を可能な限り大きくすること」。ただ、彼は先走りすぎている。人類はまだ 共同体ではない。いや、すでに共同体になっているにそれに気づいていない、 と言ったほうがいいか。 わたしがやろうとしていることは、彼と正反対と言ってもいい。彼が制約とし て描いた「人間システム」、テクノロジーの対立概念としてしか考えられなか った「人間システム」を扱うテクノロジーこそ、わたしの考える法哲学なのだ。 わたしは、日本法哲学会をそのテクノロジーの実験場として扱おうとしている。 手始めに、「共同体としての能力を可能な限り大きくするシステム」を提案し、 日本法哲学会がそれに対してどのような反応を示すかを観察したところだ。 提案の仕方には頭を悩ませた。ただ普通に提案しただけでは、ぽかんと口を開 けて聞いているだけだろう。多くの会員の知的鈍感さについてはすでによく承 知していた。自分の頭で考える習慣がなく、外国の偉い先生の書いた論文を引 き写すのが学問だと思っているので、新しいビジョンを示しても理解しようと しないのだ。彼らの関心をひく普通ののやり方は外国の偉い先生の論文にこう 書いてある、と示すことなんだ。新しいことをしようとしている人間にはなか なかやっかいな習性だと思う。 結局わたしが取った戦術は、もうお分かりだろう、挑発してみることだ。彼ら の権威を否定し、痛いところをついてやることだ。ただ、これは極めて危険な やり方だった。事態を改善しようとする気のある生真面目な人物を怒らせてし まっては、改革は成功しない。だが、それを恐れてことばを和らげてしまって は、インパクトがなくなってしまう。 実際、わたしは書いているほどには彼らをダメだと思っていない。本当にダメ だと思うなら相手にしないだろう。法哲学は可能性に満ちた知的領域であり、 それなりの蓄積もある。現在の会員の多くが、その可能性に気づかず、本来の 目的を忘れてつまらぬ「観光案内的研究」にこだわっているとしても。 わたしは、いったんは日本の法哲学界を見捨ててしまうつもりだった。その気 持ちを変えさせたのは、わたしの「未来は値するか」が、学界で想像以上に高 く評価されたことだ。絶賛といってよい評価を少なくとも一部で受けることに なった。「こんなものは法哲学ではない」そう言った人もいたし、ひょっとし たら、そういう人のほうが多かったかもしれないが。それでもまだ希望はある。 外国の研究を切り貼りしたものとは対極にある、アイディア勝負の論文が、こ れまでの日本の法哲学界では書かれたことのなかった類の論文が、一部にせよ かくも高く評価されるなら。 それだけではない。わたしは日本法哲学会会員には知り合いも多く、なかなか スルドイ人がいることも個人的に知っているのだ。このまま見捨てるにはあま りにも惜しい。そして若い世代。若い世代に希望を見いだすというのはありき たりすぎることだけれど、新しいことをしようという意欲、現状に対する危機 感については、若い世代が教授連中をはるかに上回っている。 そして、残念ながら旧世代には若い世代の能力を伸ばすどころか、芽を摘むよ うな指導をするものがいる。論文や研究報告で、日頃の言動からしてどうして こんな程度のものしかできないかが不思議でならない人がいた。わたしは、あ る機会にその原因を突き止めた。指導教授だ。教授から受けたバカな指導を無 視することは、大学院生にはできない。指導教授の承認なしに論文を公表する ことは事実上不可能だからだ。先の人の受けた指導がいかにバカなものである かをここで書いてしまいたいところだ。ほんとうにバカなのだ。しかし、具体 的に書くとその人がだれだか分かってしまい迷惑がかかってしまう。 ここで自分のことじゃないかとドキっとした大学院の人。大丈夫。ここまで抽 象化すれば、当てはまる人は何人もいる。そう、それくらいシンコクなんだ。 ある時、"物わかりのいい老人が多すぎる。老人の役割は、ガンコに自分の価 値観にこだわることではないか"というようなことを言ったことがある。これ は主張の力で勝負する場合だ。まあまあ、なあなあではなく、主張をぶつけ合 うことは確かに重要だと思う。だが、権力で押さえつけるとなるとこれはまっ たく話が別だ。 新しいことしようと意欲のある人に力を与えることはできないだろうか。どん なバカでも淘汰するシステムがないのが大学というところだが、せめてバカが のさばることを抑制することはできないか。 わたしが学会で報告したのは、第一にそのために役立つシステムだ。名を「逆 しまのバベル」という。そしてそれは会員に対するテストでもあった。また、 「未来は値するか」の「逆しまの箱船」と対になって人類(ひとびと)の未来を 拓くことを夢見るものであった。次号では、そのシステムについて説明し、い かなる意味でテストであったのかを明らかにしよう。報告を聞いた者がほとん ど見落とした暗黒面についても。
*1 「人類は存在しない。存在するのはひとりひとりの人間である」という 「発見」が、わたしの「未来は値するか」のキーになっている。だから、この ことばはできるだけ使いたくないのだけれど、"すべてのひとびと"の総称とし ては他に適当なものがない。ルビが使えれば、「人類」に「ひとびと」とルビ を打てばいいだろうか。なんだかそれもスマートじゃない。だからまあ、人類 ということばを使うことにしよう。でも、大事なのはひとりひとりの具体的な 人間である、ということを決して忘れないこと。それを忘れると、南北問題で 道を誤ることになってしまうだろう。 あと、「知的」ということばもイヤミな感じがして気にくわないのだが、これ もまあ、しょうがないかというところ。 *2 たぶん、少年ジャンプでもいいだろう。おっと、これはマンガにも劣る的 感覚、すなわちマンガを一段低く見ているわけではないよ。「アイディア、イ メージの豊かさ」「創意工夫」という点で、敬意を払うにたるマンガは少なく ないと思う。「哲学的」という観点ですら、法哲学会会員の書いた論文は多く のマンガに劣るだろう。ぜんぜん哲学的じゃないんだもの。 |