|
Thinking like Singing ―― 自由に法哲学 小林和之 |
|
|
|
Act1 Prelude |
|
「先生、日本をよくするにはどうしたらいいんでしょうか」 あまりに漠然としていて、明確な答えが出せるはずがない。こんなことを教師に聞くのは間違っている。新興宗教の教祖様なら、きっぱり答えてくれるかもしれないけれど。「もっとお布施を出すがよい」とかね。 わたしが最近気になっている問題は、それ以上に大仰で滑稽に聞こえそうだ。 ひとびとが無事に22世紀を迎えるにはどうすればいいんだろう。 「世界をよくするにはどうすればいいんだろう」といってもいい。もっとひどいか。こういうことをいつも考えているとしたら、頭がおかしいと思われても仕方がない。それでも、時折でもそんなことが頭に浮かぶのは、なんだか近ごろ不穏な雰囲気が漂っているからだ。 21世紀はヤバイ。 どうしてそう感じるのかを説明する必要があるだろうか。だとしたら、それ自体がヤバイと感じる理由の一つになる。こんなにヤバイのに、それに気づいてない人が少なくないのだ。そして、われわれを脅かしている問題には、まだちゃんとした名前がない。とはいえ、名無しじゃ不便だ。通じにくい新語を造るのはやめて、いちばん近い名前にかぎかっこをつけて「環境問題」と呼ぶことにしよう。 「環境問題」がどれくらい深刻か知っていますか? 環境汚染や温暖化現象、生態系破壊などなどの説明をするのはやめておく。そういう本はいっぱい出ているし、わたしの専門は、自然科学・技術ではなく法哲学だから。 「環境問題」は自然科学・技術だけでは解決できないことはすぐ分かると思う。自然科学・技術ができるのは、せいぜい汚染物質を除去する機械をつくるところまでだ。その機械を必要なだけ生産し、汚染地域に配置するには、政治・社会的プロセスを通さなければならない。 そして、「環境問題」は、地球環境・生態系のような「自然」の問題にとどまらない。南北問題や人口問題、世代間正義問題などの広い意味での社会的な問題と深く関わっている。問題を観察するだけではなく、処理しようと思うときには、これらすべてを総合的に考えずにはすまされない。今の社会のあり方を変えることなく「環境問題」を処理するのはとうてい不可能だろう。 「環境問題」では、テクノロジーに大きな期待がよせられている。テクノロジーというときふつう何を思い浮かべるだろう。巨大な発電所、太陽電池、ゴミ処理施設。そういったハードウェアが中心で、せいぜいコンピュータのソフトウェアが付け加わるくらいじゃないだろうか。もちろん、こういうものは重要だ*3。 しかし、「環境問題」のような、社会のあり方に深く根ざしている問題を処理するためには、別種のテクノロジーが必要だ。社会のあり方に関わるテクノロジーが。さまざまな立場のひとびとがいて、さまざまな考え方があって、自由に行動することが重んじられている社会の中で、限られた時間・限られたヒト・モノ・カネという制約の下で、問題を処理するテクノロジーが。それこそ、わたしの考える「法哲学」なんだ。 「環境問題」を処理するシステムのおおよそは、もう活字にした*4のだけれど、当然ながらそれで「環境問題」の処理がすんだわけではない。わたしの法哲学の重要な特長は、実際的な提案を含んでいることだ。この論文でも、やろうと思えばすぐできるような提案を行なっている。でも、これだけでは、絵に描いた餅よりは少しましだしだという程度。せいぜいレシピでしかない。実際にシステムが稼働するためには、まず多くの人に知ってもらわなければならない。この連載でも取り上げるつもりでいる。版元に了解を取ってホームページにも載せたい。さらに分かりやすく書き直すことも考えているところだ。 論文、それも「法哲学」などと言うと、なんだかワケノワカラナイ小難しいことが書いてあると思われるかもしれない。ご心配なく。わたしの論文は、新聞を読める人には話が通じるように書いている。そして、きっと面白いと思ってもらえるように。実際、大学教員などの専門家以外の人からも感想の手紙やメールをもらっている。実用性を離れて、「思考実験」として頭の体操を楽しむということもできるように工夫している。これを読めば、きっと「人類の計画的絶滅」が合理的な選択肢でありうることに納得してもらえるだろう。いや、ただ奇をてらっているんじゃない。そのことを踏まえておくことは、問題を考える上でとても大事なことなんだ。 ただ、これはわたしの考える法哲学で、これを専門にしている人がみんな同じように考えてるわけじゃない。それどころか、問題を処理するテクノロジーとして法哲学を考えているのは、世界中探してもわたしひとりかもしれない。その証拠に、業界関係者*5以外で法哲学ということばを知っている人はほとんどいない。わたし自身の経験でも、法哲学はとても通りの悪いことばだ。口で「ホウテツガク」と言って通じることはまぁない。たいてい、なんとおっしゃいましたとか、聞き返されることになってしまう。 わたしが、自分の専門を答えて聞き返されなかったのは一度だけだ。「お堅いことをなさってるんですね」と言われて仰天してしまった。わたしは柔らかくやっているけれど、一般的には「お堅い」と言われるようなことではある。でも、妙に話が食い違うので確かめてみると、その人は「鋼鉄学」だと思っていたのだ。なるほど、いかにもカタそうな専門だ。そういう言い方があるかどうかは知らないけれど。 現実の問題の処理に役立とうとするなら、まずひとびとに知られていないことにはお話にならない。それなのに、残念ながら狭い業界の外に向かって発言している人はほとんどいない。日本法哲学会という学会があって、会員数は500名ほどはいるはずなのだけど、社会的に無意味な自閉的オタク集団といわれても仕方がないのではないかと思う。 それでは困る。 わたしは、昨年の学会で「On a knife edge 〜 バカ狩り」というタイトルで報告をした。学会案内に掲載した報告要旨の書き出しは、「あなたは、大学で論文を書いているより老人ホームでおむつを替えていたほうがよいのではないか。この問いかけを侮辱としてしか受け取れないのは、よほど厚顔無恥で特権意識の強い人間だけだろう。確かに、わたしの経験によれば大学教員はその類の人間がもっとも多く分布している職業ではある」。 これは、関係者の一部(ほとんど全部?)には「過激」と受け取られたのだけれど、そのこと自体が、法哲学関係大学教員の夜郎自大(こっけいなひとりよがり)的傾向を示してはいないだろうか。上の問いかけは、わたしたちが実際に直面している問題を象徴的に示すものだ。予算は限られているのだから、あることに使うということは、別のことに使わないと言うことになる。自分のやっていることに価値があると思うのはけっこうなことだ。わたしだって思っている。でも、そう思ってふんぞり返っていても給与が支払われて当然だと思うのはどうだろう。大学教員の給与の大部分は税金から支払われる。私立大学も税金から私学助成を受けている。あまり知られていないのだけれど、大学教員というのはかなりの高給取り。その税金を他のことにも使ったほうが国民のためになりはしないだろうか。大学教員を減らして福祉関係職員を増やしていはいけない理由があるだろうか。国民の役に立たず、興味も持たれないようなことに税金を使うことは正当化できるのだろうか。税金を使う者には、それが国民にとって価値があることを説明する義務があるとわたしは思う。それがはたして過激な考え方だろうか*6。 さて、「税金の無駄遣い」の問題としては、事態はゆっくりと改善しつつあると言ってもいいかもしれない。法哲学関係の講座は減少傾向にあるから。 だから、それだけの問題ならわたしが敢えて取り上げることはなかっただろう。税金の無駄遣いは確かに問題だけれど、法哲学関係が最悪だとは思えないし、予算全体から考えれば大きな部分ではない。わたしが学界のあり方を問題にしたのは、法哲学がひとびとにとって重要な分野だと考えるからなんだ。法哲学界が現状に甘んじているべきではないとわたしは思っている。法哲学はひとびとのために確かに何ごとかをなし得るとわたしは信じている。 しかし、学会報告を終えて、かなりがっかりしてしまった。わたしの報告の表面的な意味を超えて見通すことができた人がほとんどいなかったようだったから。わたしの報告は、研究報告などではなかったのだけれど。それ自体が、報告の中で説明したシステムの一部であり、今なお進行中のプロジェクトの一部だったのだけれど。 このプロジェクトを連載の柱の一つ*7にしようと思っている。学会、ひいては大学という、官僚主義の最悪の部分を残した存在をどうやって動かしていこうか。わたしには地位も権力もないけれど、アイディアはちょっとばかりある。まあ、どうするか見ていてほしい。展開は遅いかもしれないけれど。 さて、さっきから何回も法哲学が重要だと繰り返しているけれど、それだけでは夜郎自大の大学教員と同じだ。この連載をすすめて行くうちに、なるほど面白い、役に立つと納得していただけるようにしたいと思う。しばらくおつき合いいただければ、ついには法哲学を教えている大学教員よりも法哲学についてよく分かるように。少なくともそういう人がちょっとくらいは出るように持っていきたい。そして、法哲学を教えている大学教員が読んだ場合には、今よりもう少し良い論文を書き面白い講義をすることができるように! *1 "近頃の学生"については、いろいろなことが言われている。大学教員が集まると学生の悪口になる、というようなことが書かれている本もあるくらいだ。確かに、問題のある学生は少なくないかもしれない。しかし、真面目で熱心な学生は多いし、そうでない学生も面白いことは好きだ。まず問題にすべきは、金を払っている学生ではなく、十年一日のごとく何の工夫もない講義をして金をもらっている大学教員のほうだろう。これは個人的な印象に過ぎないが、きちんとした講義をし、学生に対する要求の厳しい教員のほうが学生の悪口を言わない。 *2 彼女の名誉のために言っておこう。講義の後という状況を考えると、そんなにヘンというわけでははなかったのだ。その時の講義で何を話していたのかは、きれいさっぱり忘れてしまったけれど、具体的な事例を取り上げて民主主義の問題を論じていたはずだ。わたしの講義を受けて”自分が社会の問題について何もわかっていないことを思い知らされた”というような感想を抱く学生はけっこういた。「あなたの知らないニッポン」戯れに自分の講義をそう呼んだことがある。 *3 ひとつ気をつけていなければいけないことがある。それは、いかに優れたテクノロジーであっても自然法則や物理定数を変えることはできないということだ。そして、最先端技術で、いまわれわれは自然法則の限界につきあたりつつあるのだ。たとえば、コンピュータサイエンスでは、光の速度でつたわる電気信号の速度が制約として感じられるようになっている。処理能力を高めようとするとき、もはや光の速度では遅すぎるのだ。 *4 「未来は値するか--滅亡へのストラテジー」(『法の臨界第3巻』東京大学出版会、1999)。「愛でなく」(阪大法学第49巻1号、1999) *5 ふと不安になったのだけれど、法学部の学生なら知っていると考えていいだろうか。そういう名前の講義のない大学には聞いたことがないという学生がけっこういるような気がする。いや、ひょっとしたら‥‥。 *6 タイトルに「バカ」ということばを使っているのは一見過激に見えるかもしれないけれど、「バカ」なんて常日頃だれもが口にするようなことばだ。それに、わたしは、特定個人をさしてバカなどと言ってはいない。わたしが「バカ」と言っているのは、「目的を忘れる愚かしさ」のことなのだ。これについては、次回以降に説明しようと思う。 *7 こればっかりでは単調だし、なにより間が持たないだろう。官僚的存在の重要な特長に反応の鈍さがある。相手の反応をうかがいながらだから、気長にゆっくり進めるしかない。 |
》》 次へ