私のゼミの教官であった上原淳道先生は、78年の生涯で一度も海外に行ったことがなかった。それでいて、海外のことにも実に冷静で鋭い洞察を行っておられた。いったいどうすればそのような見識が持てるのであろうか、と今でも不思議である。
ただ、現場に行けばすべてが明らかになるというわけでもないということは、テレビ局の特派記者がアフガニスタンの青空を背景になんだかんだしゃべっている言葉に力がないことからも実感できる。また、現場に行ってはいけないということでもない。ときどき現場から送られてくる心に染み入る報告に出会うと、そう思う。上原先生は、読書を通じて、現場から送られてくる心を読み取っておられたのかもしれない。
今回ご紹介する山本芳幸氏の「カブールノート」は、数年前に村上龍のJMMに掲載されたのを、引き込まれるようにして読んだ覚えがある。この2,3年に書かれた10通の手紙がまとめられて本書になったのだが、やはり引き込まれるようにして一気に読んでしまった。どこにその力があるのか。
ひとつには、現場で行われた考察であるということがある。本やマスコミで仕入れた情報を頭に詰め込んで現場に行くと、知識と現場の状況との間に乖離がある、違和感を覚える。その違和感に徹底的にこだわる作業は、まるでもつれた糸を解きほぐすような作業だ。著者は、目の前にある現実をしっかり自分の目で見据えることによって、現地の人々との対話を通じて、ひとつひとつの現実に自分なりの意味づけを行う。そして本やマスコミから仕入れた知識が要するに間違っていたことに気付く。(近藤紘一・古森義久著「国際報道の現場から」中公新書にも同じような報告があ
る)
私たちが読んでいるのは、著者がその精神と身体を駆使して整理した現場の現実だ。それはウソも偽りも隠し立てもない、著者の裸の心に写し取られた姿なのである。だからリアルなのであり、だから力をもっているのだ。この手法は、私小説の手法ともいえるかもしれない。著者の人格そのものをセンサーにして、世界をその心の上に写し取る。これは誰にでもできる芸当ではない。著者がこれまでに積んできた人生修行や習得してきたものの見方や異文化との接し方の技法の上に、等身大のルポルタージュが成り立っているのである。
今年の9月11日の世界貿易センタービルテロ事件以降、アフガニスタンへの米軍の攻撃が準備され実施された。新聞やテレビで行われた報道を私もいくつか読んだ。本書に比べれば、それらのマスコミ報道や報道解説はことごとくいいかげんな偽物であったことがわかる。おそらく新聞記者もテレビ局の報道記者も、日本にいようが現地にいようが、現地で起きていることを直接自分の心で受け止めてから言葉にしているわけではないのだろう。記者たちは、言わなければならない原稿の雛型というものをわきまえていて、それに合わせてパッチワークの言葉を発しているだけなのだ。そんな報道なんて、見ないほうがいい。
そして、著者山本氏は、自分が感じ取ったことを、全人格的に伝えようとしている。タリバンについての評価も、「人権」という言葉への疑問も、ほかでは読むことのできない。一般に流布しているステレオタイプとは違った意見を、著者はなんとかして私たちに伝えようとしている。それが私たちの心を打つのだ。
問題は、それを読む私たちの側にある。実は私は第9章の「私は君の側にいる」をメルマガで読んでいたが、そこで描かれているアフガニスタンの悲惨な状況に、あらためて触れて反省をした。しばらく前にこれを読んだときに、私は深く胸を打たれた。しかし、それから数ヶ月たって、私は何もしてこなかった。私はこの報告を読むに値しない人間ではなかったのか。報告に心を痛めるだけで許されるのだろうか。心を打たれたときに、どのように行動するか、それが問題だ。何も行動できないとしたら、それはなぜだったのか。
世界と自分の関係はどうあるべきなのか。私の意識は、世界とどのように結びつくべきであるのか。性急な答えを求めても仕方ないかもしれないが、問いかけそのものを忘れないようにしたい。本書は現代世界を認識するための必読書、自分自身の心の上に世界を再構築するための指南書である。著者に感謝したい。